大船軒の歴史

当時の大船駅

大船軒の歴史は大船駅の開業と共に始まります。時は明治21年(1888)の事、翌年には大船始発の横須賀線も開通し、大船は一躍交通の要所となり、田舎の寒村であった一面田んぼの大船にまるで西部劇に出てくるような鉄道駅が忽然と出現しました。
大船が新しい時代を迎え、街も徐々に発展を始めました。そんな中、明治31年(1898)大船軒は営業を開始しました。

富岡周蔵

創業者の富岡周蔵は文久2年(1862)7月20日生まれ。現在の東京は西東京市の出身であった彼は、東京で呉服屋の丁稚奉公をしていましたが、鉄道の開通と共に大船に移り、駅の前で旅館を営んでいました。その後、周蔵は駅の構内での弁当販売を思いたち、明治31年5月2日、構内での販売許可を申請しました。
その時に申請した販売許可願い書には、弁当12銭、お茶3銭(差替1銭)、ラムネ3銭、鮨(並)7銭、玉子2銭、梨、りんご2-6銭、また車内は暑かったのでしょう、渋うちわ2銭、扇子3銭などもありました。
許可は4日後の5月6日に降りました。「すべて駅長の指示に従う事」「新たに販売する品については見本を駅長に提出の事」「売り子は16歳以上で3人まで、指定の印半天を着用の事」など、10項目の条件付きで大船軒は営業を始めました。

創業当時 控帳
半天規定

当時の周蔵の妻が薩摩藩士の娘であった縁で、周蔵は明治政府要人の黒田清隆との親交が深く、よく黒田は周蔵の元を訪れたといいます。
そんなある日、黒田は外遊の折に食したサンドウィッチの話を周蔵に聞かせ、駅で売ったらどうかと薦めました。

黒田清隆

周蔵もすぐにその話に興味を持ち、独自にサンドウィッチの製造に挑戦しました。最初は輸入のハムを使い明治32年、日本で最初の駅弁サンドウィッチが誕生しました。

初期のサンドウイッチ

販売を始めてみると、おいしさともの珍しさからたちまち売り切れ、品切れが続くことになってしまいました。
ハムを輸入に頼っていては生産が間に合わないと悟った周蔵は、ハムの自家製造を思い立ちました。
当時、運良くすぐ近くの戸塚の近郊でウイリアム、カーチスという英国人がハム製造を手がけており、それが日本人の手に移りつつある時でもありました。
これが「鎌倉ハム」の始まりでもあります。(当時、戸塚は鎌倉郡でありました)
周蔵はその技術を習い早速導入、工場の裏手の山に洞窟を掘って冷蔵庫代わりにし製造を始めました。
これでハムの供給に成功した大船軒のサンドウィッチは、前にも増して好評を博し、順調に売れ行きを伸ばしていきました。

当時のボイルドハムパッケージ

そしてそのハムのおいしさが有名となり個人や食品業者、食堂などからハムだけの注文が多数、舞い込むようになりました。
そこで周蔵は、大船軒のハム製造部門を独立させ、鎌倉ハム富岡商会を設立、本格的に「鎌倉ハム」の製造を始める事になりました。(明治33年)

鎌倉ハム富岡商会創業当時

しかし大船軒の方と言えば創業以来、サンドウィッチの成功で着実に発展をとげて来たにもかかわらず、日本中の駅でサンドウィッチが売られるようになり、その特色を失いつつありました。

昭和39年の押寿し

そんな折、周蔵は相模湾で獲れる「鯵」に注目、これをなんとか駅弁に出来ないかと思案の末、「押寿し」を思い付き開発に成功しました。
小鯵を関東風ににぎり、関西風に押して仕上げる「鯵の押寿し」は大正2年4月に発売となりました。
当時、鯵は江ノ島近海で湧く(わく)ように獲れたとの事です。
その中から身の締まった「小鯵」だけを使い、半身で一握りという贅沢な押寿しはサンドウィッチに増して人気を博して行きました。
現在でも大船軒の「伝承、鯵の押寿し」は、当時とまったく変わらず「小鯵」だけを使用し、今も伝統の味を守り続けています。

版木押寿し

さて、明治が終わり(45年間)大正時代も終わりに近づいた大正12年の夏、大震災が関東を襲いました。
この時、大船軒は駅の職員に宿舎と給食を提供、一般の旅客にも無償の炊き出しを行いました。
鉄道と駅弁屋は切ってもきれない間がらですが、こういう時にこそ協力しあって生きてきたのです。

その後大正も終わり(15年間)激動の昭和へと歴史は進んで行きます。
昭和6年3月、大船軒は株式会社となり、新社屋もその時に落成しました。
この工場兼事務所は今でも立派に使用され、現在も本社事務所として使用されています。
この建物は、アイデアマンの周蔵らしく、新しい工夫に満ちているものでした。
入り口を入ると通路が迷路のように曲がり、壁は真っ黒に塗られ暗闇の中を進みます。
これはハエやその他の虫などが入り込まないようにする工夫であったようです。
また、工場の中央部の床が一部ガラスのタイルで張ってあり、これは地下の倉庫の灯かり取りでありました。
工場は山にはめ込まれたように建っており、自然の冷気を利用した冷蔵室のような効果を持っていました。

昭和工場昭和46年当時

昭和に入り、シュウマイの販売を始め好評を博し、また小田急藤沢駅での立ち売りをはじめ、日本光学(NIKON)の社員食堂を委託されました。
着実にその販路を拡大して行った大船軒でしたが、時代は急変、日本は戦争への急坂にすべりだしていました。
昭和15年、原料の不足から鯵の押寿しが販売中止となりました。
この頃東京では食堂での米の使用が禁止となり、さらに近郊の町でも物価統制の命が下って行きます。
やがて、戦争も激しくなって行き、従業員も次々に戦地に駆り出されて行ったのです。

しかし、そんな中、大船軒は弁当を作り続けました。
米や野菜は自給でまかない、残った数人の社員でわずかながら生産を続けたとあります。
しかし、とうとう材料も底を突き、万事休すという時、一人の従業員が芋なら手に入ると、「イモ弁当」を登場させます。
ふかしたサツマイモ2本を紙にくるんだだけの物でありましたが、それでも当時は貴重品として喜ばれたといいます。
戦時中は一時、大船軒の社屋が海軍に接収され、使用不能となり営業を一時停止しました。
その折、保管されていた大船軒の貴重な資料も失われてしまったのです。
その後、鯵の押寿しが再販されたのは昭和27年の事でありました。

明治31年、湘南鎌倉の地で⽣まれた⼤船軒。⼤正、昭和、平成、令和と時代は変われど、百余年愛されてきた鯵の押寿し。
これからも、まごころ込めて⾷を提供してまいります。

平成工場